阿修羅の魅力-阿修羅像の構造

阿修羅の構造
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仏像の魅力

仏像とは何でしょうか?

もともとは仏教を始めたお釈迦様の姿のことです。

今から約2500百年前、お釈迦様はさまざまな修行ののち、悟りを開いてブッダ(Buddha)になりました。
ブッダとは「悟りを開いた人」という意味です。

中国で、「ブッダ」を当時の中国語に訳さず、「ブッダ」という音を「仏陀」という漢字に写したのです。
この「仏陀」が省略されて「仏(ぶつ、ほとけ)」という言葉になりました。

ですから「仏像」とは、「ほとけの像」のことで、狭い意味では悟りを開いた釈迦のことを指しています。

では、どうして仏像ができたのでしょうか?
そして、どの仏像も魅力的なのでしょうか?.

脱活乾漆像

阿修羅像の構造

脱活乾漆造

阿修羅像「乾漆」という言葉は近代につけられたもので古代では「即(そく)」とか「夾紵(きょうちょ)」などと呼んでいました。

「脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう)」の「脱活」とは「張子の虎」のように内部が空洞と言う意味で「乾漆」とは「漆」が乾いて堅くなったと言う意味です。

「漆」は硬化と言わず「乾く」と言うのですが乾くと言っても我々が考えるような素材に含まれた水分が蒸発して乾くのとは違い、事実は漆が「乾」くのではなく化学変化で「硬く」なるのです。

この乾燥には高湿度の部屋が必要という不思議さで、湿度乾燥を促進させるのが高湿度の「漆風呂」の役目です。

「脱活乾漆像」の製作工程は、まず最初に大まかな塑像を造り、乾燥した塑像の表面を「漆」に浸した「麻布」で包みます。

この「麻布の像」を「漆風呂」で接着剤の漆の乾燥を促し、麻布同士を固着させます。
漆が乾燥すれば麻布の像の上からさらに漆に浸した麻布で像全体を被います。
再度麻布の像を漆風呂に入れ漆を乾燥させます。

これらの繰り返しを坐像の場合数回、立像の場合10回程度行います。

その工程が終われば、坐像の場合底(尻)、立像の場合背中を切って像内の塑像をばらばらにして取り出します。

そして空洞になった像内に薄板の木枠の心木を納め、像と心木を釘で固定し 、漆が収縮して像が痩せるのを防ぎます。

「張子の像」のようになった「麻布の像」の表面に、漆に木の粉末などを混ぜて作ったペースト状の堅さの「木屎漆(こくそうるし)」を使って細かい仕上げをいたします。

そして、「脱活乾漆像」が完全に乾燥すれば「漆箔」または「極彩色」を施して完成です。

「脱活乾漆像」では凌ぎある細かい表現は、毀れやすい材質の「漆」使用のため出来ません。
しかしそれだけに「像」の相貌は、柔らかい感じの表現になります。

それと漆は写実を重んじた「天平時代」に適した素材でした。
その理由は、漆が乾燥する間、漆の高い粘着性を利用して「脱活乾漆像」の姿を理想の表現に整えることが出来る点にあります。

「脱活乾漆像」では当時、貴金属の金価格と同程度と言われるほど、極めて高価な材料「漆」を大量に消費しました。

何故高価になるかと言えば「張子の像」の素材である漆がひび割れするのを避けるため高純度の漆を必要としたからです。

恐れ多い「仏像」だけに表面のひび割れを絶対に避けなければなりませんでした。

わが国産の「漆」は世界でも最高の品質を言われ英語で「ジャパン」といえば「漆」「漆器」のことだったことからも分かります。

しかし、英和辞書でジャパンと引けば「漆」「漆器」とありますが、現在は「漆器」のことをジャパンと言っても通じないようです。

「脱活乾漆像」は、「漆」が乾燥するのに日数が掛かり制作期間が長く、しかも制作費用が膨大のため、造像されたのは天平時代に設けられた官営造仏所である「東大寺」などに限られます。

「漆」が乾燥する間仏師は手持ちぶさたになるため単体の造像では非能率だったが天平時代は多くの像需要があればこそ可能だったようです。

「脱活乾漆造」は巨像の制作に適し、多くの巨像の傑作が「東大寺三月堂」に存在いたします。


「脱活乾漆造」は中国から伝来した技術ですが中国では古代の「脱活乾漆像」は残っていません。
それだけに古都奈良の「脱活乾漆像」群は世界的な貴重な遺産と言えます。

興福寺の仏像について

興福寺に残る天平彫刻

興福寺曼荼羅 平城京は唐の都であった長安の都市計画をとり入れ、3年がかりで建設されました。

宮城(大内裏という)の正面から南へ道幅85メートル、長さ3.8キロの朱雀大路が走り、これを中心として南北5キロ、東西4.5キロほどの広さの所に東西南北に碁盤の目のように規則正しく、道の幅約28メートルのメインストリートを配した壮大な都市で、ここに大きな中国風の宮殿やお役所の建物が立ち並んでいたといわれています。

その頃日本の全人口は500百万人、平城京の人口は20万人ぐらいと推定されています。

この新しい都が出来上がると、それまで都があった飛鳥の里や藤原京のあたりに建てられていた薬師寺、大安寺、元興寺などの大きな寺はつぎつぎとこの新しい都に移転してきました。

藤原氏の氏寺である興福寺は669年(天智天皇八年)に藤原鎌足の妻である鏡女王が夫の造った釈迦三尊を安置するため山階寺(やましなでら)を建てたことにはじまります。

のちに飛鳥の里に移って厩坂寺(うまやさかでら)とも呼ばれ、平城京が出来ると、他の寺と同じくここに移転し、氏寺ではなく官寺(かんじ)となり興福寺と改名したのです。
移転といっても歴史の古い重要なお寺ですから大事業になります。

まず平城京の東に接する外京の春日の地に敷地を定め、ついで新しくお堂を建て、また仏像も造って行くのですから長い年月がかかります。

そしてお寺の中心となる金堂(本尊釈迦如来ほか計56体を安置)がはじめに建てられ、721年に北円堂(弥勒仏など九体)、726年に東金堂(丈六薬師三尊三体ほか)、730年には五重塔(四方四仏群像計百体以上)、そして734年に西金堂(丈六釈迦三尊、十大弟子・八部衆など計28体)、744年ごろに講堂(丈六不空けん索観音像)が建てられ、平安時代に入って813年に南円堂が建てられるまでを数えると、実に100年がかりの大事業であったのです。

こうして興福寺の諸堂には、おびただしい数の仏像が安置されていました。

平安後期の諸堂の仏像が描かれた興福寺曼荼羅という絵(京都国立博物館にあります)をみると、主な堂に多くの仏像がどのように安置されていたかがよくわかります。

 興福寺はその後、何回もの火災にあい、その度にお堂が再建されたり、仏像が造りなおされたりしますが、1180年(冶承四年)、ちょうど平安時代の末、源氏と平家の争いの中で、平家の軍勢に放火された興福寺は東大寺と共にほとんどのお堂が灰となってしまいます。

そして天平創建以来の名像の多くが失われ、いま興福寺に残る天平彫刻はもと西金堂にあった乾漆造の十大弟子と八部衆像だけとなっています。

つまり阿修羅像は、興福寺にあった数多くの天平彫刻の中で、数度の火災を逃れることの出来たきわめて運のよい貴重な作品の一つです。

興福寺に残る天平彫刻

阿修羅像の視線

阿修羅像の視線

阿修羅の視線は民衆に向けられてはいない

阿修羅像の視線 阿修羅像の視線は何を語っているのでしょうか。
どの仏像もそれが彫られた時代における使命を背負っているので、仏像の見方について、仏教の時代背景を少し理解しておきましょう。

日本に伝来して以降の仏教には、現代まで続く四つの大きな流れがあります。
奈良仏教(南都六宗)、平安仏教(密教系)、鎌倉仏教(禅宗系)、その他の宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗)です。
阿修羅像を擁する奈良の興福寺は唐招提寺や東大寺と並ぶ南都六宗の一つで、日本の仏教系列の中では最も古い宗派の一つです。

8世紀・平城京時代の仏教は鎌倉期以降の仏教と違って、未だ民衆を信仰によって組織化するという使命を背負っておらず、もっぱら朝廷・貴族の信仰の対象として教義の修養と仏像の造形美を追い求めていました。
この時期の仏像は、阿修羅像を含めて民衆の信仰の対象として造られたものではありません。


9世紀の平安期になると最澄・空海が唐から密教をもたらします。
最澄が天台宗(比叡山)を、空海が真言宗(高野山)を興し、特に真言宗は朝廷から熱狂的な支持を受けました。

密教は強大な力を誇り、後世の禅宗・浄土宗などの宋派となると同時に、次第に自らも武装した政治的独立組織へと変化していきます。

やがて武士が勃興し、12世紀に鎌倉幕府が成立すると、武家社会が朝廷に対抗して、武家の仏教として禅宗が興りました。

中でも栄西が宋から伝えた臨済宗が重用されましましました。
幕府が朝廷を牽制する為に敷いた「京都五山」はすべて臨済宗であります。

この時期、幕府は武家社会において徴税・徴用・徴兵などを確立する為、鎌倉を頂点とする幕府の政体に武家が集結する体制の象徴として臨済宗が位置づけられました。
禅宗の興隆と軌を一にして、平安貴族の瀟洒な宮廷文化とは対照的で質素な様式美が武家社会のキーワードとなります。

建築では書院造り、庭園では枯山水がその例です。
精神性を尊ぶ能や茶の湯が急速に浸透したのもこの為だと考えられています。


禅宗である曹洞宗系寺院の一部は幕府の仏教戦略に組み込まれましたが、総本山である永平寺・総持寺は幕府と一線を画し、地方武士や農民に浸透する道を選んで裾野を広げました。

平安末期から鎌倉時代にかけて法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が興り、次第に巨大勢力へと成長していきます。
いずれも民衆の救済を念じ、民衆に啓蒙して広く浸透を図る点で、それまでの南都六宗や密教系宗派とは全く違う組織であり、仏像の印象もかなり異なっています。


やがて応仁の乱を経て戦国時代が到来し、信長が覇権を確立します。

信長は旧体制と結びついて巨大な武装組織と化していた仏教宗派を警戒するあまり比叡山を焼き払います。
代わりにキリスト教を普及させました。

秀吉も当初これを踏襲しましたが、キリシタン宣教師達の真の意図が欧州列強による日本の植民地化にある事に気付き、弾圧に転じました。

家康も同じようにキリスト教を弾圧しましたが、仏教政策に関しては、この時期主要な各宗派が既にそれぞれの基盤を強固に確立していた為、特定宗派の突出を避けるように徹しましました。

家康による本願寺の東西分割はそのときの政策によります。

安定した徳川長期政権の下、仏教各宗派も共存共栄の時代を享受しましました。

奈良貴族と南都六宗、平安貴族と密教、武家社会と禅宗。

各時代の政治がそれぞれ自前の宗派を養護してきましたが、明治維新によって誕生した新政府もやはり、独自の仏教政策を行いました。

王政復古という建前から、生活規範として既に民衆の間に広く定着していた神道がその役割を負わされたのはいわば当然の成り行きであり、一時は仏教を廃止する措置まで講じました。


第二次大戦後の日本の「民主」政体化と経済発展による所得水準の上昇により、仏教が政治的な役割を終え、それまでの仏教を含むあらゆる宗教が不要となり、一部の宗派は政治団体や実質的営利団体への、他の多くは冠婚葬祭の執行機関としての道を歩んでいます。

現代の日本に生きる我々が阿修羅像を見て「とてもいいお顔をしています」としか言えなくなってしまったのはこのためだと思います。

阿修羅の視線は民衆に向けられてはいないのです。

その「とてもいいお顔」が物語るのは、日本に伝来する以前のヒンドゥー世界、ガンダーラ世界、さらに古代ギリシャ世界の造形美にほかならないと思います。



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金子 啓明
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